| - Volume.13 【第十七章】ザ・タニヤ Volume.14 【第十八章】連れ出し禁止店の秘密 Volume.15 【第十九章】路上のドラマ 【第二十章】ピスディー ![]() Volume.13 ![]() 会話は離ればなれになっている母と娘が、互いの無事を確認したりする郷愁に満ちた内容とは程遠い。娘がバンコクから送っても送っても、体たらくの父親がいかに稼ぎを自分に渡してくれず、どれだけ金がなくて家族が困っているかと言う母親の嘆きをたんまりと聞かされる事になる。そして半ば強制的に金を送ることを約束させられる。何時も娘は悲しみにくれながら受話器を置く。純粋に愛している父親の風情を感じ、いとおしく思うのだ。そしてそれでも一週間後また同じ電話をかけるのだ。 【第十七章】ザ・タニヤ 貧困を打破するためにタイ中の田舎の女性たちが、バンコクに出稼ぎにやってくる。女性たちが、自由の身で(パトロンなどがついていない)昼間の仕事で働き始めるが、あまりにも賃金はバンコクで生活するには安過ぎる。がしかし美貌を誇るタイ人女性は、昼間の仕事を辞めてまで働きたくなる程の誘惑の収入のある業界を、新聞広告・友達等どこからとも無く知ることになる。 それがカラオケと言う訳だ。ソープの様に直接的には体は売らないと言う、薄氷の自分だけに言い聞かせられる心理的支えが、転職の決断を容易にする。 カラオケが夜の7時半に入店すればよいという時間的な余裕も大きなファクターになる。昼間の仕事と夜の仕事をかけられるからである。しかし次第に夜の仕事の実入りに、昼間の仕事が馬鹿馬鹿しくなり、そのうち90%の女たちは夜の仕事だけに専念するようになる。 一方カラオケと一概に言っても、れっきとしたランキングが有る。世界一金離れの良い、教育水準が高く、儒教的思想がシェアできる、そして身奇麗な日本人相手のカラオケ店は、彼女たちの間でも一番人気が有る。言葉を替えると、バンコクで一人暮しをしている、金を女に惜しげもなく使うだけの余裕のある、そしてSEXにしても無茶苦茶をしない(体力的サイズ的にも)、さらに清潔で比較的おとなしく、人種偏見を持たず女たちを見下さない日本人は、バンコクの夜の女性たちにも極めて好評なのだ。 必然的にタイ人相手のカラオケ店より、日本人相手のカラオケ店に、美人どころが集まって来る。そしてその日本人相手のカラオケ店でも、最高峰を誇る場所がタニヤ通りと言うわけだ。 ただでさえ美形で有名なタイ族の夜の女性たちが、皆タニヤを目指すのだ、必然的にタニヤの女性たちのレベルは、他のどの風俗スポットより抜きん出いている。タニヤの通りで夜7時ころ10分間でも出勤途中の往来する女性たちを黙って見ていれば、それは実感できる、その美貌スタイルに驚きさえ感じる。 もっともバックパッカーには辛辣にタニヤを批判する人間もいる。タニヤは日本人社用族と成金観光客が育てた場所であり、何につけ値段が格段に高い、が彼らの言い分だ。 タニヤを育てたのは社用族と観光客だ。社用族と観光客に共通する事は、前者は飲み代は会社もちで金に糸目を付けない、後者は観光気分で財布の紐が緩む、特に女だけが目当ての観光訪タイの客の財布は、それでも女との交友費は、日本と比較にならない程安いと感じて一気に緩む。畢竟一般の在タイの日本人でさえそうそう頻繁に近寄れる金額ではない金銭が飛び交う。日本とは桁が違うとは言え、ボトルを含めず1時間飲み歌って500バーツ(昔のレートで2000円)を覚悟しなければならない。 これには女の連れ出し料や女への手当ては含まれていない。バンコクのチャイナタウンやスパンクアイ等で一人の女を抱いて100バーツ200バーツと言う最下層の料金と比べれば、途方もなく高く感じるタイジャンキー(タイ中毒者)は、少なくない。がしかし高いと言う事は、それだけ女の質も高いと言う事で、その質感の違いは圧倒的とも言える。まさしく人生が悲しく映し出されている。金の有る所に、美しい蝶も群がるのだ。 しかし一概にタニヤと言っても、その中でさえ様々な種類のカラオケ店がある。観光客と社用族の行く店は、完全に異なる。観光客の店は大体タニヤの通りに面し、1階に有り(例外も沢山有るが)、店の構えが総じて派手である。普通は客引きのホステスが通りに出て顔見世をしている。情報のない観光客はその女の風貌とスタイルなどに引き寄せられて、店に入り込む。社用族の店は、極めて奥まったところにあり、その店の中は高級な雰囲気を醸し出している。これは観光客が女と『やる』ことを主眼にするケースが多いのに比べ、社用族は『やる』ことより、接待する客にゴージャスな環境で飲んで歌って飛び切りの美人を横に座らせ接待すると言う、目的の差が有る。さらに社用族はその接客を利用し、自らは女を時間をかけてゆっくり飛び切りの女に目星を付け、くどく事、そして女との擬似恋愛を拾えないかと考えて通うのだ。在タイの社用族たちは、女とやると言う事にさほどのプライオリティーを置かなくなる。むろん赴任したては、観光客と同じように一時中毒になるが、それも1年もすると落ち着いてくる。落ち着いてくると言うより麻痺してくると言った方が適切な表現である。 一方観光客には手間隙をかける時間がない。が社用族にはたっぷりとそれがある。 滝澤が取引先のタイ人役員を接待の目的で連れて行ったのは、これまた部下の川口からの情報で、『マルコポーロ』と言う店だった。この店はタニヤ通りには直接面していない。知らない人間にはまず発見されない奥まった場所に有る。オーナーはタイ在住も長く、日本人でカラオケ店は姉妹店を数店持っている。カラオケをはじめたのも昨日今日ではない。カラオケだけではなく手広く他の商売もバンコクで行い成功している。マルコポーロは社用族の定番となっているタニヤにおけるカラオケ店の5〜6軒の横綱級の店の中でも、1・2位を争う格の高い店だ。無論女の連れ出しは完全に禁止されているし、店の構えもタニヤでは抜きん出て大規模かつゴージャス、女の数も100人を超えていた。3階入り口入って右手にはピアノバーと言われる、静かにライブミュージックを背景に歌う歌手の英語の曲を聞きながら飲む部屋、一方左手には一般的なカラオケの大部屋、そして4階には2人から15人程度の客を収容できる様々な大きさの複数の個室部屋の階に分かれる。女の質も高級で、マルコポーロの女に不細工な女はいないとまで言われていた。通常ならばタイ人のみならず西欧人も入店できないが、日本人がアテンドすれば、許可される、メンバー制の店だ(注 現在は店の方針が変わっている)。女に対する躾とモラル、そしてチーママの客の捌きは、タニヤではその横綱級の店の中ではNo.1とは言いがたかったが。 歌うのをホステスからせかされるのが嫌いなのと、趣味の合わない歌を他人のから聞かされるのが時として嫌な滝澤は迷わずピアノバーを選んだ。一流の店とあって間接照明に美しく照らし出される調度品も凝っている。8時以降、遅く出向けば、店が満杯で座れないと聞いていた滝澤は、客との食事を早々に済ませ8時きっかりを狙って行った。8時ジャストではさすがに客の数もまだ少ない。もっともいい女は予約でとっくに押さえられている筈だから、早く行ったからと行って、いい女に出会えるとは限らない。座れないので入店できませんと言われないだけの話だ。女との出会いは時の運。 ソファーに案内され早速駆けつけたチーママの『女性を選びますか?』の日本語での質問に、タイ人客と目を合わせた後で、軽く首を横に振った。 グレードの高いタイ人顧客たちも、あまり来ることの出来ない店に、興味深々と言う面もちだった。食事の時から散々話をして来た反動か、またピアノバーの持つ落ち着いた雰囲気のせいか、お互いに会話をしようと言う雰囲気ではない。その間もボーイが甲斐甲斐しく氷を運んだり、ウイスキーを運んだり、つまみのフルーツを運んだりしている。5分程して先ほどのチーママに引き連れられて女が2人やって来た。チーママに任せた女の選別だ、自分たちに質の良い女をあてがうかどうかなどは、誰にもわからない。現に来た2人の女にも美しさ、性格にも、必ず人間2人そろえば優劣が出る訳であり、誰がどう決めるかわからないが、片方の女が滝澤の前に膝ま付いてワイ(合掌)をし、もう一人の女が顧客の前に膝まずいてワイをする。この一連の出会いのめぐり合わせは、さしずめ宝くじを買うような、偶発の塊が決定する。それもまた乙な物だと滝澤はふと考えた。 滝澤は滝澤の前に現れた女の顔を見て、マルコポーロの質の高さを実感した。超スレンダーの目鼻立ちのくっきりしたその美人は、一般的な女とはやや異なる冷たい微笑を滝澤に投げかけてきた。スレンダーと言う言葉はもうタイの女性を語る時には、使う必要はない言葉だと滝澤は思った。皆が皆スレンダーである時には、その言葉は何の特徴にもならない。 「お二人ですか?」 「ああ。」 「お連れの方はタイ人?」 「そう、お客さんなんだ。羨ましいかい?君の友達?……今日は完璧なタイ語を話せるんだから。その点君は残念だったね。ごめんな、相手が下手なタイ語をしゃべる日本人で。」 冷ややかな微笑を浮かべながら、 「あなたのタイ語で十分。それ以上タイ語がうまいと警戒心の方が先に立つわ。」 女は滝澤の砕けた口調に合わせて、滝澤に対する敬語のトーンをやや落とした。 「お名前は?」 「ドークマリ」 ようやくその冷たい顔の作りに温かみがわずかにさした。 ドークマリとは香ばしい匂いを発する花の名前である。タイ人はこの花を起用に編んで輪を作り、仏教と絡めて祈る時に使う。ある時は車のルームミラーにぶら下げるし、有るときはベッドのヘッドボードの両角に引っ掛ける、ドアのノブにかけることも有る。無論仏を祭る棚や土地の神を祭る棚にも備える。しかし女が反応したのは、滝澤が花の名前を自分の名前に使った事ではない。タイ人女性と日本人男性の第二次世界大戦戦時中のロマンスを描いた、クーカムと言う(日本名メナムの残照)大ヒットした物語、今やスタンダードナンバーになった劇画・映画の日本人主人公将校のタイ語の名前をドークマリと言う。その主人公の日本人将校の日本語の本名は『こぼり』である。 「じゃあ私はアンズマリンってとこね。……ねえ本当の名前は?」 言うまでもなく物語の中で相手のタイ人女性の名前がアンズマリンと言う。 「滝澤だよ。」 「私はカイ。よろしく。」 よろしくと言う言葉だけを、日本語を使った。タイ語にも世界のどの言葉にも、明確に日本語のよろしくと言う言葉は存在しない事は滝澤も百も承知だ。カイとはタイ語で鳥と言う意味だ。細面の顔にくっきりした目鼻立ちの美人だ。色はやや黒いが、どこか派手さのない可憐さ、しおらしさを感じさせる。またタイ人特有の俗に言う口の立つ女とは違う風に見えた。声量もか細くどちらかと言うと、鼻にかかる金属音の絡む感じの声だ。立ち上がってトイレに行く様などを後ろから眺めている部分には、目を見張る抜群のスタイルの良さがある。これまた何もカイだけに言える事ではない、オイやナリーの肉感のあるボディー、ゴルフのスリムなボディー、誰をとっても、衣服を身に着けている時の外観は申し分はない。がしかしカイのスタイルは、ゴルフのそれよりさらに細長いような感じがした。 マルコポーロのユニフォームは全員デザインは自由だがタイシルクを身につけなければならないという決まりが有る。タイシルクはオレンジ色の明かりにも妖艶な光を反射する。着心地は悪い筈だ、皺にもなる、そして何より洗濯に気を使わなければならない。がしかし見た目には確かにいかにもの高質感がある。 滝澤はタイ人のお客の方の状況を観察したが、つつがなく女と話が進んでいるようで、そのまま放って置くことにした。カラオケバーで女が横に侍ればもう、男同士の話は野暮だ。 滝澤にチーママがメンバーの説明に来た。メンバーでなくても飲めるがメンバーはディスカウントがあるから、頻繁に通うと結局メンバーの方が安いと言う類の説明をしている。滝澤は黙ってメンバーフィーを払うことに了承した。他の店と違ってその客が確かにメンバーかどうかを確かめるために、店に通うたびに、その客専用のカルテにサインをさせる。他人がメンバーの酒を飲んでしまわないように、他人がメンバーフィーを払った人間の恩恵、すなわちディスカウントを不公平に受けないようにとの計らいだ。がそのような計らいは通常客の減少を招く。誰でも訪れられないからだ。がそれだけ厳しく管理する店と言う事は、客をかなり選別していると言う事だ。逆にいえば選別しても十分やって行けるとの裏返しだ。 「カイさん、今日はチーママが君をどうして選んだんだい?」 「控え室に2人しかいなかったの。」 「君とあの子だけ?」 滝澤はタイ人の顧客の女をあごでさしながら言った。 「ええ。」 「どうして?他の女たちは?」 「皆予約が入ってたり同伴だったり。」 同伴とは、店に入るときに客と一緒に出勤するシステムだ。この同伴システムなら、出勤を遅らせる事が出来る。 「そりゃすごいな。でも君たちだけが空いていたってのも偶然だな。君たちだって十分美しいのに。」 滝澤のお世辞にカイは平然と受け流す。 「マルコポーロの女の人たちは皆美しいから、私なんて目じゃないわ。今からどんどん女たちが現れるわよ、自分の目で確かめてみたら?」 「エアーポケットって所か。」 カイは少し眉間にしわを寄せてわからないと言うしぐさをしたが、滝澤が気にしない気にしないと言うジェスチャーをして、話は先に進んだ。 「ここはタニヤでも1・2位を争う高級店だけど、ここで働く君たちはそれを意識しているのかい?」 「人はそう言うわね。もちろん女もその意識、無いと言えば嘘になるわ。」 「でもだからって何なんだろう。プライドだけでこの店に勤められるだけ、金持ちの女たちが集まっているわけはないよね。僕に言わせてもらえば、タイでは多かれ少なかれこう言う夜の職場で働く女たちはなにがしか訳ありだ。」 カイの氷のようなまなざしがきらりと輝いた。がしかし滝澤にべったりと引き込まれている風ではない。あくまでも距離をおいている。滝澤はここにまず他の店の女との差を発見した。無論女の性格いかんによっても大きく違うだろう。がしかしこのカイと言う女は、滝澤に媚びて良く思われようとかいう所作はしない。滝澤はその段階で3つの可能性を分析した。1つは長年のこの業界での仕事ではじめての客との会話に、はつらつとした物をもう出せない、疲れ切っている。次は自分がそう言う物を出さなくても男が彼女を落とそうと頑張って来るから、自からはそう言う努力をしなくても良い、そして最後の可能性は確固たる本命がいて他の客は適当にコーラ稼ぎ程度にしか思っていないかだ。 滝澤はそれを確かめようとさらに質問を続けた。 「いくらこの店が高級店だと言っても、男と一晩接触を持てば、君のここでの1ヶ月の給料の半分をもらえる環境が、この店の周りの店ほぼすべてにある。訳有りの女が高級店だけのプライドでやって行ける筈がない。もちろん不特定多数の男と一晩を明かす事に、生理的にどうしても耐えられないと言う女性がいるのはわかるけどね。」 「不思議な人ね、あなたって。飲みに来て歌いに来て女を口説きに来て、そんな会話をする人って珍しいわよ。」 通常の女なら、滝澤のそう言う質問にも何とか応じようとするが、カイは滝澤を珍しいと言う言葉でやんわりと批判している。さらに特筆すべきは、口説きに来てと言う言葉を使った事だ。滝澤がカイをくどくかどうかは、滝澤が決めることで、カイが一方的に滝澤がカイをくどくと言う前提で話をしているような物だ。即ち男は皆自分をくどく物だとの無意識の認識が、その女にあると言う事だ。 「こんばんは、お名前は?住所は?おいくつ?彼氏いるのかい?いない?嘘つくなよ?いるに決まってるじゃないか。家は?……こう言う365日やって来ている会話が好きかい?……僕はもっと違う変わった話を君としたいな。」 カイは沈黙を保っている。ややこけた頬、大きなまなざし、薄い唇、褐色の肌。タイ女性に例外ない極めてすらりと長い手足、ただ整形していない鼻でタイ人特有の潰れた鼻になっていない部分だけが、やや例外と言えば例外だが、この姿形が有る意味では典型的なタイ人の顔だ。が同時にうまくは説明できないが、滝澤はカイに破滅型の女の危険な匂いを感じていた。 店のダンスフロアでは、呈良く年をとった中年の紳士たちが、こぎれいな 背広のいでたちで、女たちの可憐な右手を握り、左手で折れんばかりの腰に手をあてがって、バラード系のスローテンポのミュージックにあわせ、目をつぶり腰を振っている。エレクトリックではないウードゥンベースの奏でる深みのある旋律、目を閉じながらタバコをふかしながらキータッチするちょっと変わったグランドピアノ弾き、そして客の会話に差し障りのない声量で歌う女性シンガーのトリオは、マルコポーロのピアノバーの美しい洗練された雰囲気を嫌が上にも守り立てる。現代美術の彫刻で女性の乳房のみを複数あしらった逆三角形の金色の置物に、照明が技巧的にあてられている。女とがさつではない会話を楽しもうと言う向きには、うってつけの場所だと滝澤は思った。が同時に女の方も客層が高く、その相手に合わせて話をしなければならない。これはやや酷な事だとも思った。バンコクの名だたる一流企業の戦士たちの集う場所なのだ。日本の様に有名大卒在学中や卒業の女が高級クラブで内職で働いていると言う現状は、滝澤の聞いている限りバンコクにはまだほとんどゼロに近い。 一軒だけそれ、すなわち昼の職あるいは学生だけをおいている、を売りにしていると言う店を知っていたが。 「あなたさっきから訳あり(パラ、本来この単語の意味は訳ありと言う直接的な意味ではない英語で言うとburden重荷苦しみと言う意味の方が近いまたカタカナだけの日本人の棒読み発音では決して通じない)って何度も使っているけど、訳ありって意味はわかるけど、どう言う定義で使っているの?」 「訳有りじゃないでどうしてこの仕事をする?誤解しないでくれよ、夜の仕事を卑下している訳じゃないんだ。」 「わかってるわ。男の人が夜の女をどう思っているかは、いまさら私があなたにそうじゃないってむきになっても、限りなく100%に近い女たちがそうなんだから、何も言い訳しない。でもあなたの言う訳ありって、正しいわ。だからあなたの思う訳ありって、例えばどんな事だと思うかって、ちょっぴり興味があって。」 その当時滝澤にもそれほどカラオケの内情を知っている訳でもないし、カラオケの女たちの人生を垣間見て来た訳でもない。推測で応対するしかない。 「例えば……君もチェンマイかどこかの出身の人だろう?」 彼女は否定の首を振った。滝澤は彼女の色の浅黒さでチェンマイ等の北部ではないと言う事に言った直後で気がついた。 「でもバンコクの人ではないよね。」 彼女は軽くうなずく。冷たいまなざしは射るように滝澤に注がれたままで、滝澤の発言をまるで薄ら笑いしお手並み拝見と言う風で見据えている。そのままそう言う女を押し倒して抱きしめ、その薄い唇を奪ったら、その女はどう言う反応をするか見てみたいと言う衝動に駆られるような女だ。 「バンコクの人じゃないと言う事は、…………例外なくちょっと失礼だけどバンコクに出てきて稼がなくてはいけない事情がある。つまりお金に窮している。がしかし昼間の仕事には就けない……。それは夜の仕事の方が君のような美貌を誇る人間にはより簡単に高給が取れるから……。そうだな……田舎の人は、特に君のような美しい娘は15歳16歳頃に既に結婚をする。がしかしその結婚に破れて、バンコクに出てきたとか……。」 ここでカイの表情に動きが現れた。第三的な傍観者冷やかしの姿勢が揺らいだように滝澤には見えた。 「結婚をすると言う事は、どう言う事か……そうだな……黙っていても子供が出来る……。」 ここまで滝澤は自分で話しをしていて段々意を強くしていた。いずれにせよこの女の質問に自分なりに落とし前をつけなくてはいけないのだ。成り行きで話して来てその話の落とし前を見つけたと言う感覚を抱いたからだ。それが正しいかどうかはどうでも良かった。それだけの十分な情報量や知識を持っていず、推測のみで話しているのだから。 「タニヤで働いている女の人たちは、働き始める前はタイ人男性との、そして働き始めた後では知り合った日本人男性との情事で、必ず大きな恋愛の過去が一つや二つはある。特にタイ人女性は情熱的だから。まず前者であればまず子供を抱えている女が多い。次に後者すなわち働き始めた後の情事では、日本人の恋人とうまく行っていた時の金回りの良さから、一挙にその恋人から捨てられてもとの木阿弥に戻ったとき、しかも年齢が昔より食っていると言う背景を思い知らされた時、将来的に自分の人生設計をどうしたら良いかを、葛藤している女が多い。」 カイはここまで滝澤の話を聞いて、初めて滝澤から視線を外してややうつむき加減に、複雑な憂いを秘めた顔で、滝澤のウイスキーにティシューを巻きつけ、グラスに付着した水滴をコースターに落とさないようにした。その間何も話さない。カイが何か考えているのか?あるいは単純にその作業に専念しているのか?は滝澤には見当はつかなかったが。カイはその作業を終えて、滝澤に向き直り、話し始めた。 「お見事ね。何年タイに住んでいるの?」 「大体5ヶ月。」 「5ヶ月?嘘……。」 「嘘だと思っても結構。」 「タイ人の奥さん(ミヤノイ、通常は妾の意)がいるの?」 カイは滝澤が既婚者だと言う前提で話をしている。 「いいえ?」 「ケンね。(ケンとは凄いとか上手とか見事とかの意)」 この会話には大きな秘められた中身が有る。女がいないと言う滝澤の回答に納得しているわけはない、5ヶ月も信じているわけでもない、そしてその疑惑に答える発言が『ケン』なのだ。 「何が?」 カイは何も答えなかった。滝澤は連れ出しなしの高級店で働く女たちと、肉体的接触を避けられない一般的な店で働く女たちとの相違を探ろうと必死になっていた。それまで滝澤がつかんでいた、ただひとつだけの事実は、体を張る普通の店の女たちは、手を変え品を変え、滝澤に連れ出してもらおうと、無理な不自然な努力をする。即ち媚びを売る。ゴルフが滝澤に対して直接的ではないが、そうであった様に……、仮にその日が駄目でも他の日で何とかと言う仕草が必ず出てくる物だ。がしかし店のシステムそのものが連れだし禁止の、そう言う店で働く女たちには当然の事ながら、そう言う一発勝負的な、必死さは必要はない。すべてがスムースで、通常の客とその対応をするホステスと言う関係の立場は終始変わらない。日本と同じくそう言う女を落とすには、暇・時間と金をかけ、並みいる錚々たる競合に打ち勝たなければならないのだ。 他の体を張る店の女と基本的には変わりは無い筈なのだ。なのに何故そう言う店で働いていれるのだ?滝澤の知りたいという意欲は、高まるばかりだった。 目次へ→ Volume.14 ![]() 息子は、はるばるバンコクに遊びに来た父親と水入らずの晩餐を楽しんでいた息子がまだ幼かった頃の父親の外出等行為が、女絡みであったなどと言う会話を。 食事も終わりに近づいた時男の携帯電話が鳴った、男は躊躇したが電話を受けた。1ヶ月働いたクラブの社長から給料をもらうために店に行ったのだが、社長に会えず金がもらえない。100バーツ(約350円)貸してくれとの、女からの電話内容だった。つまり家に帰るタクシー代がないと言うのだ。 日本から来たばかりの父親は、現在の日本では決して起こり得ないであろうその電話に驚愕した。その350円と言う金額もさる事ながら、自分が若かった頃の状況と酷似していると言う部分に。 男は高級和食レストランから出て父親と一緒にその女が待機していると言う店に向かった。店の前の駐車場に車をつけた時、父親は車の中にいて様子をうかがっていた。既婚の子供まで有する息子の遊び女、タイ人女性とはどんな人間なのかと。女は男の説明で男の父親が車の中にいる事を知ると、暗く何も見えない車内の助手席に向かってワイ(合掌)をし膝を軽く折った。金を渡して車を運転し帰宅する途中、父親と息子はしばらく何も会話をしない。と、ふと父親は一言だけ尋ねた『いくら渡した?』息子は『2000バーツ』とだけ答えた。父親はかぶりを上下に何度も振りながら、自分に言い聞かせるようにうに何度も小さく呟いた『それでいい…それでいい…』。息子も自分に言い訳するようにつぶやいた、『暗くて桁を間違えたかな・・・・・。』 【第十八章】連れ出し禁止店の秘密 多分に人の性格によるものだ。カイは無口なのかもしれない。タイ人にとっては都会のバンコクで、数年生活し自活できるようになってくる女性は、例外無くかまびすしく何でも仕切りたがる女性像になりがちだ。特にタイの場合はそれが顕著だ。ただでさえタイの女性は男性よりそつ無くしっかりしているのは有名な話しだ。これはアセアン(タイ・マレーシア・インドネシア等)の開発途上国の各々の国に共通する特徴だ。しかしタイではそれが、極めて顕著である。それは一説には宗教に関連するとも言われている。即ち家庭では男児の誕生を喜び、女児の誕生をあまり喜ばない風潮にある。おのずと男児は丁重に過保護に育て上げられる。 一方女児は邪険に放置され育てられる。また加えて発展途上国のこれまた一般的な風潮として、否定し難たく旧態依然の男尊女卑の考えが今なお歴然と残っている。故に女児の立場は、加速度的に劣悪な物になる。この環境こそが彼女たちを恐ろしくタフな、過保護に育てられた男よりしっかりとした人間に形成する要因になっているのだ。日本人がよく言う、可憐でいとおしさを抱かせる、か弱い憐憫な女性像をタイで探求するのは、きわめて不可能に近いと言って良い。即ち知り合ったばかりはお互いに猫を被る、がしかし本性を分かり出すと、本質的に受身ではない能動的な日本人男性にとっては、タイ人女性と激しくバランスオブパワーを決するために、ぶつかりあいせめぎ合う場面に遭遇する。これは避け得れないと言って良いだろう。(何でも女性に尽くしてもらって、心地よく過ごしたいと言う向きには、逆にうってつけだ。タイ人女性はとことん、男のために体を張って尽くす。)ただ何度も直面する激しい文化の違い、常識の違いから引き起こされるぶつかりの後、それから先その女性とうまく関係を続けられるか否かはタイの女性が、日本人の男性のやり方を受け入れるか受け入れないかの点にかかって来る。その逆もまた真なりではあるが・・・・・・。 そう言う点からすればカイは極めて、滝澤が『破滅型の匂いがすると』感じ た物と共通する何がしかの、秘めたる不気味さ、奥行きがあり、一般的なタイ人女性像と異なった。発言する内容一つ一つに、客をもてなそうとする人工的な物がない。客の話しに合わせようとするような気配もない。ひょうひょうとしている。その場面場面の表情に暗さ疲れさえを感じさせる。それが滝澤に一般的タイ人のカラオケの女性と異なり新鮮に映させ、好奇心を掻き立てさせる。 「君の何時も来る客は今日は来ないのかい?」 「ええ。」 滝澤はこの言葉にも新たな新鮮さを感じた。普通このような質問には、『定期客はいません』と答えるのがマニュアルだ。 「聞いていいかな……彼どこの会社?」 「ミツイ何とかって言っていたわ。」 「ミツイ何とかと言っても沢山の会社があるな……。でもミツイって名の付く会社の人は、優秀な紳士が多いから……。」 「どうして?」 「日本の客だってピン切りさ。カラオケの女性にピンからきりまでの女がいるのと同じようにね。でもこの店はほら見てごらん……。」 と言って回りのだんだん混み始めてきた店の日本人客を360度、指を回転させ指し示し、 「どの客の人もきちんとした身なりをしてるだろ?人間は身なりでは判断できないけど……。皆会社で重要なポストについて、多くの部下を持っているような重職を背負っているような顔つきをした、品の良い男の人が多いだろう。」 カイも毎日うんざりするほど見慣れている日本人客を滝澤の観点に従って改めて見まわす。彫りの深い目は、単調ではない極めて個性的な顔をしている。しかしカイには滝澤の言っている事が、指摘されても分からないようだった。 「そうかしら………。」 「あそこでダンスを踊っている男の人がいるだろ?普通の男の人はフォックストロットなんかでは踊れない。それは彼が習って覚えたことではあるかも知れないが、決して遊び人だから覚えたと言う物ではなく、そう言う機会が彼の人生に多かったから勉強して覚えてああやって踊れているんだと思うんだ。彼の踊りにぎこちさはないだろ?こう言う機会ってのは普通の地位の人ではなかなかないんだよ。」 静かに滝澤の説明に耳を傾けながらカイは聞いていた。 「私は、カラオケはこの店でしか働いたことがないから、他の店の事は話で聞いて知っているだけで殆ど知らない。だから他のお店のお客とうちのお客を比較することは出来ないわね。」 滝澤もカイとの会話の中で、自分で話しながら、女の連れだし禁止のシステムの高級店のもう一つの特徴を探り当てていた。即ち客層が違うのだ。むろん接客に社用族が使うと言う事は当然の事として。連れ出しを目的としない人間が集まっているのだから、少なくとも女を抱きたいからそこに来ている男はいない。それを確かめるために次の質問をした。 「お客の中には勘違いして、女を連れ出そうって思って来る人はいない?」 憂いを秘めたまなざしのカイは静かに答えた。滝澤は決して気取って、意図的に仕草を作っているのではないと感じた。 「時にはいるけど、ほとんどないわね。でも仕事がはねて付合わないか?って客は結構いるわ。」 これだけのカイの言葉が滝澤にある種のショックを走らせた。心の中で、膝を大きく叩きたい仕草にかられた。連れだし禁止と言う事で、店のシステムでは客は商品である女を客に連れ出させることによる、連れだし料収入は放棄している。がしかしそうすることにより、女に客の選別権を与えているのと同じ事なのだ。女に男の拒否権を与えているのだ。 がしかし他カラオケと同様に金銭に困窮する女は、結局自分の気に入った男とあるいは、どうしても金の要りようがかさんだ時は、店外デートに応じられるリストを手に蓄えておけるのだ。それによって店の得る物は…………連れ出し禁止と言うステータスと格調、そしてこれが一番大きいファクターなのだが、即ち店のシステムとして連れだし禁止と言うルールに守られると言う女の心理をついて、誰にでも拒否権なしに体を売らせる店になじめない……、有る意味においては全世界の女性の共通の性(さが)をプロテクトしてやりながら、店は俗に言ういい女をごっそりと確保できると言う仕組みになっているのだ。それだけではない、女は連れ出し禁止の店に働いていると言う事で、プライドを持つ。そのプライドが他店と違う僅かであるが、崇高さと品格を彼女たちの態度に滲ませる。それが男たちに一味違った刺激を与えるのだ。金銭に困窮すると言う女のステータスは当時のバンコクのどの店とて同じだ。一つも違いやしない。滝澤は少し動揺を隠しながら、 「それで、君は客とデートした事はあるのかい?」 カイはその滝澤の言葉に驚くほどキッと反応して 「そんな体を売る女とは私は違うわ。」 と答えた。むろん滝澤は彼女の言葉を頭っから信用してはいなかった。 「そのミツイ何とかの会社の人とは?」 「1年くらい前知り合って、1週間に2度ほど来てくれるかしら。奥さんもバンコクにいるし子供もいるわ。そんな関係になれる筈ないじゃない。」 「奥さんや子供がバンコクにいたってかまうことはないじゃないかい?彼が君を愛していれば、愛し合えばいい、恋愛はちゃんと成り立つさ。」 カイは信じられないと言う顔つきで滝澤を見て、 「奥さんがいる人をどうして愛せると言うのよ?」 「人間好きになれば誰にも止められない、道徳や宗教の観念でやっちゃ行けないと自分を強く律しない限りはね。僕はそれって自然だと思うし、所詮僕たちは生き物だからあんまりそんなものに縛られないで自由に生きて行くのがいいんじゃないかって、タイの人たちの行き方を見て、自分自身が価値観を変えていっているような気がする。」 滝澤は素直に日本からタイに来て劇的に変わりつつある自分の価値観の一部を吐露して見せた。所詮滝澤は先進国でしか生活した事はないのだと言うことに、つい最近気が付いた。その時の衝撃は多分一生忘れる事は出来ないだろうと思った。日本で生活する人々のどれだけの人々がこの事に気が付いているだろうか?所詮無理な話だ、比較の対象がないのだから。 一般的に先進国は世界では7カ国とされ百数十国ある国のほんの僅かの比率なのだ。その極めてマイノリティーが、あたかも世界の価値観を代表しているかのごとき考え方は、ある言い方をすれば傲慢とも言える。マイノリティーが経済的に、政治的に軍事的に価値観的に世界を支配している。しかし滝澤の知らない価値観が一般多数マジョリティーなのだと言う事に気が付き始めていた。 「でも私はミヤノイ(妾)はいや。ちゃんとした独身の男性と恋愛をしたいから。」 カイはか細い声で姿勢正しく背筋を伸ばして言う。 「貴方は独身?」 「いいえ」 「そうでしょうね。」 カイはやや落胆した表情をわずかに見せたが、慣れきった客への回答だ。 「子供さんは?」 「一人」 「男の子、女の子?」 「女の子。」 「いくつ?」 「8歳かな?」 「子供の年をきちんと覚えていないの?」 「うん……。」 「駄目よ、子供の年くらいはちゃんと覚えていないと。」 「うん、訳ありでね。」 「訳有り?…って?」 カイの表情が今まで見せて来た表情と明らかに違うものに変化した。彫りの深い魅惑的な顔に、例の厭世観が砕け散る表情が浮かぶ。 「説明すると1時間も2時間もかかるから、君が知りたければ今度したげるよ。」 「今じゃ駄目なの?」 カイがきちんと伸ばした背筋を滝澤の方にやや傾けて来ている。話の内容に突っ込んできているのがわかる。シルクのタイとスカートに包まれたきっと常識を逸脱する彼女の脚の長さは、見事なものだろうか?それともただ単純に骨がらだけの味気ない物だろうか?滝澤はロングスカートに目を落として、想像をめぐらせた。相手がミニスカートをはき、客を性的に挑発しているいでたちのホステスと座っている時は、滝澤は決してかなりな部分露になった大腿部などに視線は消して落とさない。これは胸の谷間に関してもそうだ。女たちはそう言う男たちの視線だけは敏感にキャッチする物だ。しかしロングスカートをはいている女の大腿部に視線を落とし一時視線を休ませることなどには、何の不具合はない。滝澤はそっとカイの膝の上に手をあてがってみた。スレンダーな女に特有の鋭く鋭角に尖った膝頭が、感触的に分かる。カイは自分の手をやさしくその滝澤の手を上に覆い被せた。 「なんて尖った膝なんだ。こんなんで膝蹴りでも食らおう物なら、あばら骨2、3本は軽くへし折れるな。」 カイの表情に初めて笑顔が浮かんだ。 「たまにはこんな店にも勘違いしたすけべなお客も来るのかい?」 「ええ、時々。でも基本的にはロングドレスだし、私がここで働いている限りでは、せいぜいドレスの上から胸を露骨に触ってきたりする客程度かしら……」 「そんな時はどうするの?」 「ちーママを呼んで、説明してお客に女を私から別の人に変えてもらうの。」 「へー……それで客は怒らないのかい?」 「怒ってチェックビン(お勘定)して帰ってしまう客もいれば、黙って店の説得に従う客もいるわ。」 「そんな客はもう二度とこの店には戻ってこないだろう?」 「いいえ。ここはメンバー制の店だから。それでも女を変えてちゃんとまた来るわ。」 と言って、左後方の客を指し示した。 「あの人、昔私をずっと指名していた人なの。でもあまりにもすけべだから、チーママに言ってホステスを変えてもらったの。でもその変えたホステスの所にきちんとああやって通って来るわよ。」 「客の聞き分けが良いんだね。」 案の定女たちは誰が誰とどこに座っていて、その人間関係はどうなのかなどは滝澤との話をしている間でも十分把握している。左後方のお客を指し示す時のカイの素早さは、滝澤から言われて例えば……周りを見回して探して、見つけたスピードとは違う。とっくの昔にその男が後方に座っているとインプットされていての説明だ。 「わからない、他の店を知らないから。」 滝澤も周りの客の様子を、先ほどから薄暗い店内で目を凝らして観察していた。もちろんカイに観察している様子を悟られないように。何故ならそう言う男のしぐさは、他の女性を品定めし、自分より好みの女性の姿形、番号を確かめようとしていると考えるからだ。特にカイの場合は数名の女性から滝澤自身が選んだわけではない。チーママに頼んで任せて連れてこさせて引き合わされた同士だ。女は必然的に男が自分に興味がないと想像する。そして次に男が来店する時、別の誰か気に入った女を発見するまでの繋ぎだと自分を位置付ける。特にマルコポーロのような100人以上もの女がいて、そのほとんどが予約されており、飛び込みで行った客はまず選別の余地のない店と言ってもよい店では、なおさらの事だ。いい女を見つけるには、人から奪うしかない。そのためには、店の中を行き来する女の番号に目を凝らして、観察しておくしかない。知り合う機会が有って無きがごとしなのだから。現地に居住する賢い男は、性急に一人の女に没頭しては行かない。従って女は初めての客との出会いを、特別の出会いとはみなさない。 一方連れ出しの店はその初めて座った男にその日連れ出してもらえるかどうかが勝負であり、大きく趣きは異なる。 また男は想像だにしないだろうが、何十名もいる女の中から選び出されて指名されると言う部分は、女たちにとっても一種の大きな快感である。それが例え自分の趣味に合う男であろうが合わない男であろうが。即ち他の女より容姿的に優れていて先に選ばれたと言う優越感を女に抱かせるからだ。自分が指名して欲しいと感じる客から指名を受けたときなどは、彼女たちの顔になんとも言えない喜びの表情が一瞬浮かぶ。自分の趣味に合わない客に選ばれ、気乗りしないとか、生理的に受け付けないとか、性格的に合わないとかの困った問題は、客と座った後の問題である。 滝澤はカイが全く自分に乗り気ではないと言う分析を、滝澤が自分でカイを選ばず、チーママに委託したからだと分析していた。カイが自分に興味を抱かせるようにするためには、そしてカイが自分に興味があるかどうかを調べるには、ただ一つの方法しかない。それは通ってみる事のみだ。 もちろんバッターボックスにたって、三球三振を食らう事も有る。もっとひどい場合は、三球とも手が出ずの見送りの三振だ。その場合の理由は多々有れど、カイと言う大リーグの店に所属するピッチャーの球のスピードに目がついて行けるのか行けないのか?バットが出るのか出ないのか?そして振ったバットが球にかするのかかすらないのか?ヒットを打てるのか打てないのか?得点を挙げることが出来るのか出来ないのか?滝澤は多いに挑戦意欲を不思議と掻き立てられていた。カイのよそよそしい態度にはその意欲に拍車をかけていた。 求めよさらば与えられん、聖書の言葉だ。何事も求めなければ与えられる事は、無いとは言わないが、確立が確実に低くなる。黙ってグラスを傾けていれば、女の方から寄ってくる男が世の中にはいない事はない。がしかし滝澤は自分をそう言うカテゴリーの男であるとは全く考えていない。こう言う店では格好ばかりをつけていても、女は決して滝澤にはなびいては来ない。滝澤の出したバットに球は向こうからはあたって来ない。ここはスクンビットの連れ出しの店とは違うのだから。 「家はどこ?」 「クロントイの港の近く。」 滝澤はクロントイとはバンコクでも有名なスラム街である事に思いを馳せた。カイは端正な顔に端正な姿勢を崩さない。がしかし表情の端々に憂いを帯びる。ただでさえ泣き顔系の美人である上に、訳有りのような伏目がちな彼女のしぐさは、滝澤の印象に強く焼きつく。 「クロントイか……僕の家の近くだな。」 「え?貴方の家は?」 「スクンビットの24だよ。ほらきっとクロントイからはそびえたつような高層のビルが4棟並んでたっているから、君が家に帰るときは必ず見える筈だよ。その一番君の家に近い棟の側の最上階のベランダのある部屋だ。」 カイは目だけ天を見つめるしぐさを少しした後で、 「ああ、あのピンクの外壁の色の?」 「そうそう……。」 「お金持ちなのね……。1ヶ月6万バーツ以上はするでしょう?。」 「さあ……、マイプーツダイマイ?(言わなくてもいいだろう?)」 カイは両手で滝澤の肩を少し力込めて押した。滝澤の上半身がぐらりとカイとは逆方向にゆれる。 「送って行こうか?」 滝澤は敢えて思いきってこの言葉を口に出した。話しの流れからは極めて自然の流れである。がしかしこう言う手を使っている男はごまんといるだろう事は、滝澤の想像にも難くはなかった。むしろこの言葉を聞いたときのカイの表情の方が、今までの自然な平和なつつがない会話に、大きく水を差したような雰囲気をかもし出した。さもありなんだ。こう言う雰囲気になるかも知れない事くらいは十分予想はついていた。滝澤は別に慌てはせず、カイの回答を平然と興味深く待った。カイはしばらく間を置いて、 「いいわよ。」 とだけつぶやいた。 送って行くと言う事は、店がはねる深夜の1時まで店にいなければならないと言う事を意味する、あるいは先に店を出てどこかで暇を潰すかだ。がしかしその日客のついていなかったカイの30分1杯80バーツのコーラ代金稼ぎに貢献するには、滝澤がカイと一緒に座って時間を稼いでやる事が、彼女の実入りに貢献する。彼女にとっては一番嬉しい事だ。『客が女の機嫌をとってどうする』、などと滝澤は内心でつぶやきながら、先ほどから美しいメロディーを歌い続けているタイ人のシンガーに、マイチャランプラーの『コーロング』とマリワンの『コーケーダイルー』のリクエストをカイにさせた。歌っている最中のシンガーはカイの手渡たした小さな紙切れに書かれている曲名を読んで、滝澤の方を一瞥し軽い会釈をした。OKのサインだ。 歌手が滝澤のリクエストした曲を歌い始めると、店の女たちが一斉にシンガーの方を振り向き、ざわめきともとれる小さな声を発した。 普通日本の紳士たちはタイの曲を選曲することは無い。むろんタイ人のシンガーに日本の曲を歌わせる事が不可能であると言う事も知っている。従って英語のお決まりの歌になる。女たちはそれを注文した主が誰かを、女同士で確かめ様と目配せをしているのが観察できる。『コーロング』の歌を聴きながら、滝澤は心地よさに、店のソファーにより深く寄りかかり、深く目を閉じた。そう言う滝澤にカイもちょっかいをかけずに、そのままにさせておく。花で言えば………人目に付かずひっそり、しかし深みの有る味わいの濃い紫色で咲く菫(すみれ)と言う感じか。目を閉じながらカイの事をそう評した。滝澤のカイの膝の上に置かれた手は、先ほどより体にやや近い位置にずらされていた。もはや膝頭の骨ばった部分ではない。超の付くスリムスレンダーのカイの肢体からでも、分厚いシルクのドレスの上からでも、カイの体のぬくもりは伝わってくる。長い事被せられているカイの手と、滝澤の手には汗ばむ物が感じられて 目次へ→ Volume.15 ![]() 男と女の別れの日が近づいてきた。男の日本帰任の辞令が下ったのだ。4年間女は妻子持ちのバンコク単身赴任の男と、紆余曲折が有りながらも、一緒に暮らしてきた。振りかえれば数多くの甘くも有り苦が苦がしくもある思い出が、深く男の心に刻み込まれている。男は、なけなしの金をはたいて、一軒の家を女に買ってやった。男の精一杯のせめてもの償い。そして心からの感謝の意を込めて……。決して女からせがまれてれて買った物ではない。 男は日頃から何にでも捺印する癖が有った、蔵書や書類はもとより、あらゆる物にも。言うまでも無くそれが自分の所有物であると主張するための癖だ。 別れの日、飛行場に見送りに来た女は、出発ゲートに男がまさに消えて行かんとするその瞬間、ジーンズのすそを軽くたくしあげ、左足かかとを男に見せ、涙に滲んだ目でにっこりと微笑んで見せた。そこには男の名前の刻まれたはんこと全く同じ文様の刺青が彫ってあった。 【第十九章】路上のドラマ マルコポーロは独自で店のあるビルディングの地階に駐車場を持っている。マルコポーロで遊ぶ客は、駐車料金は要らない。ボーイに20バーツほど手渡しさえすれば、客の車をぎっしり詰め込んだ地下駐車場へ、まるでルービックキューブを操るように、車を並べ替え押し込みそして引き出して来る術を知っている。 早朝1時に店がはねると言っても、女にも帰り支度が有る。実際には男が店で勘定をさせられるのが12時45分頃。女が店から着替えを終わって出てくるのは、それから30分後の1時15分頃になる。その30分間男は何もする事無く、タニヤのストリートをぶらつくか車の中で女を待つ。込み合い始める居酒屋で待ち合わせと言うケースもある。 車の中で滝澤はシートをかなり深く倒して注意深く店の周辺の人間模様を観察していた。 先ほどまで店内でドレスで着飾っていた夜の蝶たちが、ジーンズにTシャツと言う極めて普通のいでたちで、家路を急ぐ。あるいは友達と誘い合わせて、タニヤの路地に有る屋台で、夕食、正確に言うと昼間の勤務の人間で言う夜食を取りに出かける。またあるグループはタクシーに乗り合わせて、ディスコに向かう。 いくら洗いざらしのジーンズに冴えないTシャツであろうとも、いい女は隠せない。長身で見事なまでのプロポーション。すらりと伸びる長い脚を、女たちが望まずとも、これ見よがしにフィットさせるジーンズ、例外無くロングの光沢のある美しい滑らかな黒いなで髪。そして誰もが否定できない様々なタイプの美貌。続々と店から吐き出されてくる女たちを黙って観察しているだけでも、滝澤は胸騒ぎを覚える。ミス何々の審査官になったような気さえする。がしかし審査官だけではいかにも口惜しい、思わず後をついて行き名前と店での番号を聞きたくなるようなおかしな衝動に駆られる。 夜の闇と薄暗さが引き起こす『夜目遠目』を差し引いても、見事としか言いようが無いほど、あまりも多すぎる美人が蠢き感覚が麻痺してくる。 一方路地に目を転じると、日本人の男とタイ人女性が暗闇の物陰で至近距離で何やら話をしている。女はさめざめと泣いている。滝澤の詮索癖と好奇心を大いに掻き立てる。 向こうの通りの明るい方ではまた別の面白いシーンが展開されていた。有る一人の美しい女が通りを歩いてきていた。仕事帰りだ。その30m程先に、男と女が寄り添って歩いている。その女もまた夜の女だと一目瞭然である。多分100%連れ出しの店からの一夜の伴侶を求めて男が買った女だ。一人で歩いていた女の足が、その2人を発見して凍りついたように止まる。何よりもその女の目が女の激情を如実に物語っている。怒りではない、悲しみではない、嘆きでもない、しかし何とも表現しづらい険しい目つきだ。その女を発見した男は無意識のうちに、今まで和気藹々と肩を並べて歩いていた女との距離をよそよそしく置く。急に距離を置かれ不思議に思った女の方は、向こうで立ち尽くむ女を確認し、事も無げに男から歩き去る。あたかも自分はその男とは関係がない女なのだと言わんばかりに……。見事な狂言だ。しかしそう言う女の機転のきいた茶番も、凍り付いている女には、田舎芝居の他の何物にも写らない。男は慌てて女に近づき必死に平静を装い話し掛けようとした。女はあらん限りの力で男の横面をひっぱたいた。その反動で左肩に書けていたショルダーバックが大きな弧を描いてスローモーションのようにフワット宙に浮くのが印象的だ。女は男を置き去りに駆け足で離れて去って行った。男は一夜をこれから存分に楽しむはずの、そして店に料金を支払った代償の美人の伴侶には消えさられ、何らかの訳有りの本命らしき女からも立ち去られる。 その一部始終を観察しているのは滝澤だけではない。日本人ビジネスマンが使うタイ人ドライバーたちが雇用主の日本人がご帰還するまで、路地や階段に座ってそのような劇の一部始終を観察している。 その筋書きのない芝居の一部始終を見て、誰も笑ったりもささやいたりもしない。ただ無表情・無感動に見つめているだけなのだ。完結した物語を見届け次ぎの物語を探しにかかる。男と女の織り成す夜の盛り場では、珍しくも何ともない辟易とする、がしかし暇つぶしにはもってこいのドラマなのだ。 滝澤がそう言う一連の様子を興味深く伺っていると、助手席を軽くノックする音がした。滝澤は倒していた運転席の電動シートを元に戻し、『入って』と言う仕草をカイに示した。カイはその仕草を見て滝澤の車に乗りこんできた。 カイは極めて地味なコールテンの茶色のジーンズと黒系統の何の変哲も無いTシャツのいでたちだった。ただ滝澤はその格好が、かなり金回りに厳しい状態に置かれている女の見繕いであると一瞬にして判断した。持っているバックと言い、付けている装飾品といい、パトロンがついている女の様相には程遠い。 時にはそれをわざと見せ付け、男に不憫と思わせ罠に使う女も稀にはいない事もない。がしかし多くの女は、過去の数多くの男から貢がれた、高価な装飾品や身の回りの品々を、見せびらかす確率の方が圧倒的である。これはタイ人の女に限った事ではない。男はその風潮はもっと顕著かもしれない。さらにそれは仕事中の店内の仕掛けであり、通常家との往復にはそう言う手は使わない。 「すごい車に乗ってるのね。」 カイの車の中の第一声だった。 「僕の車じゃない事くらい、知ってるだろう?お客さんの殆どが社用族なんだから……。会社の車だ。」 「でも、誰もがこんな車には乗れないわ……。どうしてベンツに乗らないの?」 「僕は皆が乗る車は遠慮したいたちでね。人がベンツに乗るんだったら人とは違う車に乗りたいって言う変な性格で……。要するに人と同じじゃやだってタイプの人間なんだ。皆お金がたまればベンツ。役職が偉くなればベンツ……。僕はそう言う考え方がはびこればはびこるほど、そう言う考え方には従いたくない。………そんな事はどうでも良いけど、車の事よく知っているんだね。」 「だってお客さんが俺は何に乗っているって自慢する人が多いから、仕事柄どうしても車の名前だけは覚えてしまうでしょ?そして町でバスやタクシーに乗っているときにそう言う車を見かけるたびに、これがあのお客さんの言っていた車かって覚えることになるの。でもこの貴方のレクサスは、あまりバンコクではお目にかかれない車よね。……ああ……涼しっくて気持ちいい……」 滝澤にはそして日本人には当然のエアコン付きの車の、エアコンの効きが、カイには何とも快適に感じるらしい。 バンコクで走っているバスは、最近エアコンバスが増えてきたと言え、2台に1台以下の割合で、エアコン無しだ。この交通渋滞で有名なバンコクで、エアコンの効かないバスで、人々は排気ガスを大渋滞の中で長時間吸わされ、平均日中気温、年間を通して36度の外気の高温にさらされ、座る場所によっては太陽の光線をもろに浴び続ける。タイの有名な政治家がいみじくも言った『バンコクの子供たちはバスや車の中で育っている。』と。けだし名言である。そう言う環境にいる彼女たちにとって、ひんやりとする、排気ガスを臭わない、ゆったりとした柔らかい座席は、さぞかし心地よい乗り心地に感じられるのだろうと滝澤は考えた。 「さっきここでずっと見てたけど、綺麗な子がなんて多いんだ。」 「言ったでしょ?吐いて捨てるほどいるって。」 別に感情的に言っているふうでもない。 滝澤が車を出す間にも、続々と店からは女たちが出てくる。当然車の男とその助手席に座っている女へのチェックの視線は、極めて短い時間であるが、確実に行われている気がしていた。その逆もまた同じだ、普段と変わりない会話をしている間も、カイの目は店から出てくる女たちに鋭く注がれ続けている。 そうこうする間に滝澤の車は、店がはねるのを狙って、駐車禁止の所に止め道を塞ぐタクシーが大渋滞を引き起こしているタニヤ通りとシーロム通りとの接点をかいくぐり、ラマ4世通りに出た。さすがに午前の1時半ともなると車もまばらで、世界一の交通渋滞都市との有りがたくない評判を担うバンコクの主要幹線でも、車はスムースに走る。 「何時もタクシーで帰るんだろ?」 「ええ。」 「いくらくらいかかる?」 「大体80バーツって所かしら。」 「危なくない?」 「装飾品に金とかつけていると、やられるわ。指輪も。だからタクシーに乗る時はそう言う物を外すの。もっともご覧の通り私は何もそんな高価な物は持っていないけど」 両手手のひらをくるくる回転させながら言う。 「給料日は?」 「毎月5日」 「その日は?」 「確かに危ないわ。タクシーの運転手は女たちが現金を持っているって知っているから。でもマルコポーロは大丈夫、銀行振込だから。」 滝澤は驚いた。何とカラオケの給料が銀行振込だと言うのだ。 「金銭的だけでなくやっぱりタクシーの運転手も男だから、君たちみたいな女性たちを乗せていると、つい出来心ってやつが出てこないか?」 「もちろん。出てこないか?どころじゃなくて、その手の事件は良く聞く話よ。私たちがどうしてそれを防ごうとしているか知っている?もちろん車を持っている女は別として、スタンガンなんかをバックに入れて持てる女もいるわ。バックにはたいてい小さな折り畳み式ナイフのようなものも持っているわ。でも普通はタクシーの運転手を選ぶことで防ごうとするの。タクシーの運転手の選び方って知ってる?」 「いいえ。でも……想像は付くな……。例えばかなり年配の運転手さんを選ぶとか。」 「そう、他に?」 「他にか……思いつかないなあ。あ、そうだ昔使ったことの有る運転手を定期的に使うってのも、安心感があっていい筈だね。」 「それも確かにそう、まだ思い浮かばない?ちょっと無理かも知れないけど。面白い選び方があるの……それは自分より背が小さくて体格の小さい弱そうな運転手を選ぶって……。」 滝澤も頬を緩める。カイも笑顔を浮かべていた。 「あれが貴方のアパートでしょ?」 カイが左手に見えてきた高層のビルを指して言った。 「そうそうあれあれ。あの一番手前のベランダのある階が見えるだろう?あの左の部屋が僕の部屋。」 「明かりが付いてないじゃない。それとももう彼女は寝てしまった?」 カイは茶化しながら滝澤に質問した。 「当然だろう、誰もいないんだから。明かりがついていたら一大事だ。」 「本当かしら……。貴方のような人が一人暮らしだなんて、まず誰も信用しないわよね。貴方、次の機会に貴方のプライベートの話しを詳しく聞かせてくれるって約束したわよね?……次お店に来るとき私を指名するかどうかは貴方の自由だけど、もし私と座ってくれるって言うんなら約束守ってくれる?」 次何時来てくれるのか?携帯の電話番号を教えてくれとか言う攻めの言葉は一切ない。何とカイは自分を選ぶかどうかは滝澤の自由だと言っているのだ。滝澤はその余裕に感銘した。一昔前はやった言葉で清貧と言うものが有った。金回りに不自由している、がしかしプライドだけで貧しさを容認して行ける女なのか、この女は?またそれが許される生活環境なのか?どう考えても説明がつかない。 「ああ、約束する。でもギブアンドテイクだ。君も君の過去を僕にするって条件ではどうだい。……僕たちは子供じゃない、過去が無いわけが無い。『僕は、私は過去はぜんぜん有りません。』なんて言う大人がいたら、大嘘付きか、よほどその人間の性格に問題が有り、異性から遠ざけられ続けてきたと言う事の裏返しだ。」 カイは正面を向いて遠い昔のことを思い出しているようだった。それも思い出したくないような過去を。またあの哀愁を帯びた瞳で。 「無理にとは言わないけどね。」 滝澤はさりげなくフォローした。 「いいわ。私も話しをしてあげる。」 滝澤はクロントイ方面、バンコク港の方向の路地をカイに言われるままに車を操り奥深く入って行く。一人で帰れるかと心配になるほど、深さだ。奥に入れば入るだけ、明かりが少なくなり、陰険な暗闇が車を包んでくる。滝澤は『ここで』と言うカイの言葉で、カイのアパートの前で車を止めた。 クロントイ…………一般人が入れば、無事には出て来れないと言われている、バンコク最大のスラム街だ。滝澤にはその今いる場所がクロントイのどのあたりかなどは知る由も無い。 「有難う滝澤さん。」 車から降りてドアを閉める間際にカイは言った。 「どういたしまして。」 ややおどけた風に滝澤はかえした。 「・・・・・・貴方・・・私を貴方のアパートに誘わなかったわね。」 「誘うと思っていた?」 「ええ。ほぼ送ってくれると言う人は食事をしようとか、アパートで飲もうとか何とかで、誘ってくるものよ。」 「だろうね。」 「どうして?」 「どうして?って、送るってのが僕の約束で、君を誘うってのが僕の目的じゃないから。」 「私にそんなに魅力が無い?・・・・・・興味が無い?自分で選んだ女じゃないから?」 「どうしてどうして。でもそんなに急がなければならない物かい?。君をくどかせてもらう時間はたっぷりとある。君が過去からひきずっている複数の男と関係があって、僕の割り込む余地が無くても、そのうちに待っていればお鉢が回って来るだろうし。……No.5……いやNo.10?くらいが今日、僕の並ぶ順番?1年に順位を1位づつくらい上げて行けば、10年で僕の番になる。」 カイはタイ人典型の美人顔にやさしい微笑をたたえ、その面白い表現に反応した。 「ランクが落ちるって事は考えないの?」 そう言って車のドアを勢い良く閉めた。 滝澤が狭い路地をかなり苦労して車をUターンさせる間、カイは立ち去らずにその場にとどまっていた。滝澤はようやく車のきびすを返し引き返す間際に、運転席の窓ガラスを空けて言った。 「それを怖がっていたら夜の女性とは何も始まらない。特に君のような女はその危険とは常に裏腹だ。」 と滝澤は言い残してアクセルを踏み込んだ。サイドミラーには滝澤がその路地を曲がるまでカイが滝澤の車を見送っている姿が写っていた。 ![]() (2002/02/18 K.O氏投稿作品) MP(マッサージパーラー、ソープランドの意)で一戦を終えた男たちが話をしていた。旅の恥は書き捨て、普段は話せないような事でも饒舌になっている男たち。 「もの凄いテクニックでさあ、簡単にいかされちゃったよ。」 「3回戦突入したぜ。ヒィヒィいってたよ。」 「いや〜、部屋に入った途端、抱きついてきたと思ったら、あそこはもうびっしょりでさぁ。お前ら、商売女を濡らせられるかい? ハハハ。」 その一方。 「物凄い早漏の客で、簡単にいったわ。あとはタバコ吸ってた。」 「羨ましい! 私の相手なんか、普段女に相手にされないのか物凄いたまってたみたい。3回も求められてアソコがひりひり、痛いのなんの。あのハゲ。」 「私の客なんか、濡れてるって感激してた。誰があんたなんかで濡れるもんですかって感じ。これ塗っただけなのに。」 そう言いながら、その女はローションをバッグにしまった。 【第二十章】ピスディー 滝澤がよく社用で通う弁護士事務所はサトーン通りに面した近代的ビルディングに位置していた。交通渋滞のひどい場所として有名で、アポイントの時間など有って無きがごとし。向こうも心得たもので、アポイントに遅れてもさほど気にしない。そこは世界的に有名な弁護士事務所だった。顧客とのトラブルや、タイの法律を相談するときに訪れる。そう言う事務所にはタイでも折り紙付きのトップクラスの大学を卒業した、大抵中華系のタイ人が働いている。もちろん英語は何不自由無く使える。中華系と言っても華僑ではない、華人である。両親もタイで生まれ育っている純粋なタイ人なのだ。普通タイは潮洲出身の中国系タイ人が50割以上を占める。シンガポールやマレーシアやインドネシアなどの周辺諸国の中国系ローカルとは、違う土地の出身である。一般的には祖父母が中国人と言うケースであり、従って現在のジェネレーションは、中国語の読み書きすら出来ない人間が殆どだ。がしかし外観はまさしく中国人そのものである。幾度もやってくる滝澤はレセプション(受け付け嬢)にも顔は売れていて、滝澤が事務所に入ると笑顔で愛想良く接してくれる。 弁護士にも様々な弁護士がいる。係争に得意な弁護士、会社法に得意な弁護士、会社の役員会株主総会の書類を作るだけのルーチンをこなす駆け出しの弁護士とか、せいぜい定款の変更などを担当する弁護士とか……。滝澤の相手をする弁護士も内容によって代わる。シリアスなケースは、それなりの格付けのチャージの高い弁護士との折衝となる。些細なケースは駆け出しの弁護士になる。その駆け出しの弁護士に最近Missピスディーと言う女性と相対する事が多くなっていた。弁護士とはさすがにニックネームなどでは呼び合わない。ピスディーとは名前である。ピスディーも弁護士だからと言って自分を先生だとか言う気持ちはさらさらなく、滝澤とは自然にビジネスの相手として仕事をする仲になっていた。滝澤にとって今までのタイにおける女性遍歴から根本的に違うのは、ピスディーは中華系であり、顔かたちは日本人と同じ、皮膚の色も日本人と同じく白いと言う点だ。金持ちの家庭で育った、品の良い才女を絵に描いたような風貌であった。自分の学歴を鼻にかけるわけでもなく、極めて丁寧な英語をしゃべり、彼女のたたずまいは由緒正しいものだった。真っ白な皮膚、日本人型のどちらかと言えば、毒気や個性を含まない愛らしいおっとり型の美人である。 目次へ→ Volume.16.17.18へ→ ![]() |