花園神社縁起
新宿という町は、今では西口には東京新都心として都庁舎をはじめ高層ビル群が立ち並び、
東口においてはデパートなどが立ち並ぶ新宿通りや
歌舞伎町やゴールデン街などの繁華街などがあり、
商業や文化の盛んな都市というイメージがあるが、
それ以前にも、内藤清成がこの地を拝領したその昔からかぞえて約400年、甲州街道の宿場町としては約300年の古くから栄えた地である。
花園神社はそれ以前からのお宮であり、総鎮守としてこの地をずっと見守ってきた。
ここではその歴史を些少ではあるが振り返ってみたいと思う。
新宿という町の発祥
新宿という町は昔は内藤新宿とか追分新宿とか呼ばれていた宿場町でありその名の由来は
「内藤家屋敷地前にできた新しい宿」ということである。
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内藤家
内藤氏は藤原秀卿の末孫で、忠政の時に家康に仕えて駿府(今の静岡)に住んだ。二代目清成は武田宗仲の子で内藤家を継ぎ、浜松では家康の小姓として仕え、
また青山忠成とともに秀忠の子守役もした者であるが、天正18年(1590)の秀吉の小田原城攻めに家康に従って参加している。
(小田原城落城後、内藤氏は相模国座間郡五千石を領して座間町の新戸に陣屋を設けている。)
その後、家康の関東移封が決定し、江戸に居城を構えるために内藤清成は伊賀組百人鉄砲隊を率いて、
国府道(後の甲州街道)と鎌倉街道の交差点となっていた現在の新宿二丁目を中心として陣屋を敷き、
旧武田、北条の残党に備えて、遠見やぐらを構えて警備をした。
家康が江戸入城の後、内藤氏は布陣していた新宿の地をそのまま拝領し、現在の新宿御苑となっている。
(普通、下屋敷跡と呼ばれているが正式には中屋敷であり、上屋敷は神田小川町に、下屋敷は下渋谷にあったともいう。)
新宿の地を拝領するにあたりこんな逸話が残されている。
家康江戸入城の折、家康は内藤清成をよび、こういったという。
「おまえの馬が一息で駆け巡るだけの範囲の土地をやろう。」
内藤氏はすぐさま白い馬に乗って榎の大木を中心に駆け出した。馬はかなりの範囲をかけたと見え、滝のように汗を流して、その場に倒れてしまったという。
馬はまもなく死んでしまった。その範囲は東は四谷、西は代々木、南は千駄ケ谷、北は大久保あたりに及ぶ広大なものであったという。
そこで家康は「大変結構であった。よく飼いならしたものだ。約束どおり土地を与えよう。」といったという。
ちなみに清成の伊賀組百人鉄砲隊は慶長7年(1602)今の大久保に移され定住し、現在の百人町の始まりになっている。
伊賀組鉄砲隊が移住した百人町にもこんな逸話が起こされている。
百人組の武士たちは将軍が外出の折の警備や江戸城大手門の守備などにあたっていたが、
大久保通り北側(百人町2丁目あたり)には2箇所の鉄砲打場(角打場ともいう)があり、平時そこで鉄砲打ちの練習をしていた。
寛永年間(1624〜44)のこと、ある鉄砲隊与力が射撃の研究のためにそこで一夜を過ごしていると、稲荷神が夢枕に立った。
そこで翌朝稲荷神社に祈願し射撃をしてみるとなんと百発百中の成績であったという。
これを聞いた組の人たちもここに参詣し祈願すると皆的中したということである。それ以後その稲荷神社を皆中(皆アタル)稲荷(百人町1-11-16)と称するようになった。 (topに戻る)
内藤新宿
冒頭にも記した通り新宿とは新しい宿場町であり内藤家御拝領の当時にはまだ宿場町はできていなかった。
その当時日本橋を起点とした甲州街道で一番初めの宿場町は高井戸にありその距離およそ4里2町(約16km)であったという。
しかしそれではあまりに不便であるとして、元禄11年(1698)その当時浅草安倍川町の名主であった喜兵衛(後の高松喜六)が同志4人
(市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛)とともに、5600両の巨額の金を上納することを条件に、その中間に新しい宿場町の開設を願い出た。
その場所が内藤家屋敷地前であったことから、新しい宿場町の意をとり「内藤新宿」と呼ばれるようになる。これが今の新宿の名前の元となった。
ちなみに「新宿區史史料編」にも、
「此地ハモト内藤大和守ノ邸地ナリ、後年邸地ヲ割テ上地トシ萱野ナリシヲ淺草商人某官ニ乞ヒ驛並ノ家作ヲ創メ元禄十一年ヨリ初テ宿驛トナレリ。」
とある。
以後、喜兵衛は高松喜六と名乗り代々名主を務めるようになったという。
その後、内藤新宿は宿場町として栄えることとなったが、同時にその性質上、岡場所(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても栄えることとなった。
「岡場所遊郭考」には
「甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和(1764〜71)安永(1772〜80)のころは殊の外盛なり・・・(中略)美服を着し紅粉の装いあたかも吉原におとらぬ春花をおきたり。・・・」
とあるように華美反映の姿がうかがえる。
また「高松文書」(東京都公文書館蔵)には、 「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政11年(1799)には上町(新宿3丁目あたり)には20軒、中町(同2丁目あたり)には16軒、下町(同1丁目あたり)に16軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候」 とある。
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花園神社の名前の由来
冒頭にも記した通り花園神社は徳川家康江戸入城よりも古いお宮ではあるが何度も火災あいそのたびに全焼しており、また関東大震災や東京大空襲などの戦火を潜り抜けておりあまり資料としては残っているものが少ない。
ここからは内藤新宿300年祭(平成10年)の折に花園神社から発行された「花園神社三百五十年誌」に詳しいので、それを中心に書き連ねていきたいと思う。
花園神社は寛永年代(1624〜1644)までは内藤宿の追分にあり、現在の場所より約250メートルほど南、つまり今の伊勢丹デパートのあたりにあったと思われる。
それが寛政年代に朝倉筑後守という幕府の旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したのにともなって、社地はいつのまにか朝倉の下屋敷の中に囲い込まれてしまった。
そこで幕府に訴えでたところ、この訴えが認められ現在の場所を拝領した。
その左隣には尾張藩(尾張徳川家・・・尾張・紀州・水戸御三家の筆頭であり、将軍家についで最も格が高い。初代藩主は家康の9男の義直。)の下屋敷があり、神社が新しく拝領した場所は寛永より以前には尾張藩下屋敷の庭の一部であり花園であったという。
その花園の跡に移転してきた稲荷神社なので花園稲荷神社と呼ばれたのではないかと思われる。
史料として最初に花園の名が登場するのは享和年間のことで、享和三年正月の二十四日最初の大火災にあい、「社殿末社諸坊舎にいたるまで悉く烏有に帰した」という。
そのため日ごろから信心の厚い信徒たちの悲嘆は大きく、一ヵ月後の二月初午の日、内藤新宿町より壮麗をきわめた額面が奉納された。
その額面には「花園社」と記されており、これが花園の名前が史料に登場した最初である。
しかし正式にそう呼ばれるのはずっと後のことで、その当時は単に稲荷神社とか三光院稲荷とか呼ばれ、さらに江戸時代には地名にちなんで四谷追分稲荷とか呼び習わされていたらしい。
ちなみに三光院稲荷と呼ばれたのは、当時神仏習合により神社と仏教寺院が同時に祀られることが多く、
花園神社も真義真言宗豊山派の愛染院の別院である三光院が合祀されており、そこの住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだった為であるといわれている。
しかしその三光院も明治元年(1868)三月に維新政府が祭政一致の方針にもとずいて、神仏分離令を発布したのに伴い、さらに廃仏毀釈が盛んだったこともあり、花園神社と分離され、本尊は愛染院に納めて廃絶となった。
明治になってからは、「村社稲荷神社」というのが正式名称とされた。
これは明治に入って神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らして、「稲荷神社」とだけかいて届出をしてしまったかららしい。
しかし、江戸時代から当神社は「花園社」の名前をもっているし、単に「稲荷神社」といえば総本山である伏見稲荷神社を指すのが一般的で紛らわしいということから、
大正五年1月25日、当時の社掌・鳥居成功と氏子総代・坂田寅三郎ら13人が東京府知事に対し社号の改名願を提出している。
この社号改名願は同年2月26日に許可され、正式に「花園稲荷神社」となった。
さらに昭和40年には、それまで末社であった大鳥神社を御社殿建替えと共に本社に合祀したことから、現在の正式名称である「花園神社」となったのである。
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